雨の日に 武将 と 酒 と 槍 と 〜


 え〜 雨はさておいて 福岡で、武将と酒と槍といえば地元の者なら「黒田節」が挙がらないことはない(キッパリ)。
♪酒は飲め飲め飲むならば〜♪ と歌い出すこの曲は、雅楽「越天楽」を今様(現代風〜っていっても平安時代の)にした節に詩をのせた曲で、当時は「筑前今様」と呼ばれていたそうな。この「黒田節」に出てくる、♪日の本一のこの槍を〜♪ の槍“日本号”は刃長一尺以上の長身で正三位の位を賜ったという伝承があり、朝廷から信長、秀吉が所有した正に名槍である。

以上前置き


 さて、日曜日。撮影の仕事が台風2号の九州最接近による雨&風で延期になった。ので、ドライブに出かけることにした。嵐の中もちろん自動車で。
緑が萌え萌えな山肌を眺めながら道路にやたらと落ちている樹の枝を避けたり踏みつけたりしながら。
午前8:00に出発して、どんどん風が強くなってゆく中 県道の傍らに「後藤又兵衛の墓」という看板を見つけた。
後藤又兵衛・・・又兵衛・・・又兵衛・・・ どっかで聞いたことあるなあと 傘をさして行ってみた。

「後藤又兵衛」

播州(兵庫県南西部)の生まれ。
豊臣秀吉の九州征伐の時に黒田如水の元で活躍した人。
槍の又兵衛と云われ「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人。
武功により 筑前 大隈城 城主となった。
大坂夏の陣で伊達政宗軍との乱戦の中 伊達軍片倉重長率いる鉄砲隊に銃撃され重傷
これ以上戦えないと、部下に介錯を命じて自刃・・・・
とされるが、ここには豊臣敗戦の後 傷を追った又兵衛が、縁故のあるこの地へ落ちのび隠棲しこの地で死亡 と伝わっている。

みたいなことが書いてあった。

黒田の家臣で槍の・・・ おっ 黒田節のモデルの? いやあれは加藤清正だったんじゃ・・・・
と思って家に帰って調べてみると面白いことが沢山わかった。

まず「黒田節」のお話は、「後藤又兵衛」と同じく「黒田二十四騎」「黒田八虎」の一人で、又兵衛と並ぶ槍の使い手、そして「フカ」と呼ばれるほどの大酒飲み 「母里太兵衛」という人物だった。
太兵衛は、歌の通り大盃の酒を飲み干して 名槍“日本号”を貰った。
その後、朝鮮出兵(この時 加藤清正、後藤又兵衛も一緒)。戦の中、命を助けられた礼として“日本号”を又兵衛に譲る。

又兵衛は関ヶ原の合戦で武功を上げ、大隈城(益富城とも言う 福岡県嘉麻市)の城主になるが、歯に衣を着せなさ過ぎる言動など、実力はあるけど組織の中ではちょっと的な性格がもとで 主の「黒田長政」と関係が悪くなり、 槍 を娘婿の「野村祐直」(太兵衛の甥)に譲って出奔。以後長政に邪魔されて仕官できず長く浪人生活を送った。
大坂の役勃発で真田幸村らと大阪城に入り〜 あとは 看板に書いてあった通り。
ちなみに生存説は他にもあって〜奈良で僧侶になり隠遁生活の後に一生を終えたという説。そこの又兵衛の屋敷跡といわれる場所には「又兵衛桜(瀧桜)」という大きな桜の木がある。

“日本号”の方は吉村家に長く伝えられ 大正時代に一度離れたが、福岡藩の出身者が買い戻し福岡藩時代の藩主であった黒田家に贈与。そして黒田家より福岡市に寄贈されて今は、福岡市博物館の所蔵品として展示されている。

又兵衛出奔の後の大隈城は、母里太兵衛が城主を継いだらしい。
この大隈城のあたりはもともと街道と街道を結ぶ交通の要衝であり、安土桃山時代には豊臣軍の九州征伐の重要な拠点であったようだ。
一国一城令により壊され、今は城址となっているが、秀吉の陣羽織がいまでもこの町に残っている。
この町には、後藤又兵衛に因んだ「又兵衛まんじゅう」なんていうのもある。
そして、僕の大好きなお酒「寒北斗」を作ってるのものこの町である。

いやぁ〜 雨の日に タイムスリップした気分になった。

道の駅ではやっぱソフトクリーム食べました。

Nadja / 18:35 / comments(0) / -
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